"EternityLink" Case.01

「いらっしゃいませ、当館では――」
「御託はいいわ、早く通してちょうだい」
 女は、迎え入れた老執事の挨拶を遮った。
 焦りがある。
 決してみすぼらしいわけではなく、かといって豪奢とは呼べぬ服装をまとったその女
は、金に飢えていた。
 いや、金だけではない。とにかく、何もかもに飢えていた。
 女の焦りを見て取ったのか、老執事は黙って女を奥の部屋へと通す。
「くれぐれも失礼のないよう……」
 二階の一番奥、巨大な扉の前で立ち止まった老執事の言葉を、やはり最後まで聞かずに女は扉に手をかけた。重い音をたて、扉は客を招き入れる。
 部屋は埃と黴の匂いのする書斎だった。もう何十年も使われていないような、そんな印象を与えてくる。
 女は焦っていた。
 この部屋で目的の男と会う段取りだ。この館の主と。そして、褒賞を受け取る。自らの体験を話し、報酬を得る。女が聞いたのは、そういう話だった。
 ただ、自らの経験を話すだけで、自ら望むものを望むだけ与えてくれる、という館の主の話だ。実際、女に話をした酒場の主は、ある地方でしか産出されない地酒から、稀少すぎて値段はつけられぬと言われる蒸留酒まで、世界中のありとあらゆる酒を手に入れ、その酒場を開いたと言った。確かに、彼女はまだ貴族として暮らしていた頃に、場末の酒場の主でしかなかったその男のことを知っていた。荒みゆく時代の流れに抗えずに、酒場は潰れたと聞いた。だが、それと同じ場所に、以前とは比べ物にならないほど立派な酒場を開き、男は幸せそうに暮らしている。自分は、斯くもみすぼらしく没落したというのに、だ。
 見下していた相手に見下されるのは我慢ならぬことではあったが、女はなりふりかまってはいられなかった。酒場の扉を開き、変わり果てた自分の姿を晒しながらも、この館の情報を聞き出したのだ。
 ただでは帰れぬ。もう、戻れぬ場所まできているのだ。
 女は血走らせた目で部屋の中を見回した。書斎らしきその部屋は、そのほとんどが埃の中に埋没している。書斎としての機能を果たしていないことは確かだ。
 その時、部屋の隅にあった机の椅子がくるりと回転した。
 女の肩ほどまである背もたれに寄りかかり座っていたのは、年端もいかぬ少年だった。
 いや、少年のよう、だった。
 不審そうに眺める女を意に介さず、少年は静かに微笑む。
「貴女がお客様ですか?」
 天使のような囁きで女に向け発せられた声は、その古めかしい部屋の中では奇異でしかなかった。
 焦りに支配されていたはずの女の足がわずかに鈍る。一歩後退って、女は我に返り、少年の前の机に飛びついた。
「貴方が、この館の……?」
はやる想いを抑え込むようにして、女が言葉を口にする。
「ええ、そうですよ、お客様。こんな姿をしていますから、勘違いされるお客様も多いのですけれど、ね。貴方は気付いてくれたようだ」
 言葉から脈ありと読んだ女は、内心小躍りしたい気分だった。だが、そんな素振りは見せぬまま言葉を紡いでいく。
「ええ、噂はかねがね聞いております。その、お話をさせていただきたいと思いまして、ええと……」
「名は名乗らぬのが、この館での決まりです。貴方様も名乗る必要はありませんよ」
「そうですか……、なら、伯爵様」
「……おや」
 と、それまで微笑みを絶やさなかった少年は、初めて笑顔以外の表情を見せた。
「私が伯爵であると、よくご存知ですね。爵位を頂いたのは、もう随分と昔のことなのですが」
「ええ、伯爵様にお会いになるにあたり無礼があってはならぬと思い、自分でできる限りのことはしてきたのです」
 淀みなく答える女。
 だが、その胸中は違う。女は一度、騙されている。騙され、財産の全てを奪われてい
る。だから、それ以降、女は全てに対し、まず疑うという姿勢を保つようになった。
 そう、世の中は、けだものとしか称せないような輩ばかりがひしめきあっているのだから。
「それはそれは、お手数をかけさせて申し訳ないですね」
 少年は、女の気遣いにやはり微笑みで返す。
「ならば、この私が望んでいるもの、それももう分かっていらっしゃるのでは?」
「はい、あくまで私が知っている範囲になってしまいますが……、伯爵様はお話をお聞きになりたいと、そう聞いておりますけれど」
「ええ、その通りですよ」
 その言葉に、女は分かりやすいほど大げさに喜色を示した。もう既に、女の心の中には焦りはなかった。ただ、いつも通り、普通の女として振舞えばいい。女は平静を取り戻
し、そして自分ではない何者かを演じていた。
「ただし」
 と、そう言葉を発した少年の顔からは、微笑みの表情が消えていた。いや、一切の表情が消えていた。ただ、なにもない。突然、冷酷な青年が現れたような、そんな印象を与えてくる。
 全てを見透かされるような少年の冷たい視線に、女は一瞬ひるんだ。まさか、自分の心のうちを見透かされているのではないか、と。
 身構えた女に対し、少年は再び笑顔を取り戻した。
「貴女の記憶に、もっとも鮮明に残っている出来事です。新しくても古くてもいい。その情景をありありと思い浮かべることができるような、そんなお話を期待していますよ」
 言葉の最後に、女に向けてにっこりと微笑む。
 女は、少年への一瞬の畏れが、自分の杞憂が生んだだけの産物であると解釈した。
 この少年がこの館の主であることに変わりはない。爵位をもっているとはいえ、所詮はただの少年だ。幼い頃に父親から受け継いだだけであろう地位に、畏れるべきものなどなにもない。
 それに、いざとなれば……。
「どうしました?」
 少年の言葉で我に返る。一瞬、思考の世界に没入していたらしい。
「いえ、大丈夫です。少し自分の記憶を手繰っていました」
「そうですか。では、お話していただけることは決まりましたか?」
「はい、決まりました」
 というより、この館に来る前から、何を話すかなど決めていた。女にとって、鮮明な記憶など一つしかない。過去の自分と、今の自分を結ぶ接点の記憶だ。
「あの一つよろしいですか?」
「はい、なんでしょう」
「この話は、あまり多くの人に聞かれたくないのです。先ほどの執事の方は……」
「それならば大丈夫ですよ。彼は一階で待機していますし、お客様が来ている時は決してこの部屋には近づかぬよう言付けてあります。恐ろしい話に私が悲鳴を上げたとしても、彼には聞こえませんよ」
「そうですか、それは安心できます」
 そう、つまり、今私はこの少年と二人きり、ということだ。少年に何かあろうと、執事が知ることはない。
「それでは、よろしくおねがいします」
 そういって、少年は自分の背丈ほどもある背もたれに体を預けた。
 女は姿勢を正し、自分の記憶を簡単に整理した。何を伝え、何を伝えるべきでないか。何をし、何をするべきでないか。そして、少年に話をし、何も得られぬ時に何をするべきか。
 呼吸を整える。大丈夫。
「あれは……、ちょうど二年前の冬でした……」
 女はあらかじめ用意していた言葉を、すらすらと口にし始めた。
 自らの鮮明な記憶を。

 

 私が手に入れられぬものは何もない。欲しいものは全部手に入れる。宝石も酒も、男
も。
「お嬢様、仕度はいかがですか?」
 扉越しに執事が話し掛けてくる。身の回りの準備をしていた侍女たちの仕事も、もうすぐ終わるようだった。鏡の前には、舞踏会のために仕立てられたドレスを身にまとった私がいる。
「すぐに行くわ。それよりも、あの娘、ちゃんと招待したんでしょうね?」
 あの娘。
そう、全てを手に入れなくてはいけない私のものを奪った女。許せない、絶対に。
「はい、先ほど会場にいらしているのを確認しました」
「そう、ちゃんとドレスを着てきているのかしら?」
「はい、ドレス姿でした」
「あれくらいの家柄だったら、どんなみすぼらしいドレスなのかしらね」
 私とあの娘では、家柄に天地ほどの差がある。どう考えたって、注目を一身に浴びるのはこの私だ。あの娘ではない。
「行くわよ」
 群がる侍女たちを振り払い歩き出す。
 そう、私の舞踏会が始まる。

「どういうこと?」
 舞踏会から切り上げた私は、怒りながらドレスを脱ぎ床に叩きつけた。
「お嬢様、その様なはしたない……」
「うるさいわね、執事のくせに私に指図しないでくれる?」
 つかみ掛かった手で執事を押しのける。その後ろから侍女たちが追ってくるが相手にする気にもなれない。
「どういうことよ。あの娘に恥かかせるはずが、なんで私が惨めになってるのよ」
「しかし、お嬢様も……」
「私が何よ。あの田舎貴族の芋娘のどこがいいわけ? 私の方が生まれも美貌も、優れてるっていうのに」
 そうだ、何もかも私の方が上なのだ。なのになぜ……。
「なんで、あいつは私の誘いを断るわけ?」
 傍にあるものを、手当たり次第執事たちに投げつける。
「お嬢様、落ち着いてください」
 侍女の一人が前に出る。
「これが落ち着いてられる? 私は大臣の娘よ? それなのに、舞踏の相手として、なんであの娘が選ばれるのよ」
「それはですね、個人の好みというものもありますし……」
「じゃあ、私の美しさは個人の好みの前にひれ伏したっていうの?」
「いえ、そういうわけでは、決して……」
「もういいわ、みんな出て行ってちょうだい。私は誰とも一緒にいたくないの」
 その一言で、執事も侍女たちも、みんな部屋から出て行った。私の言葉は絶対なのだ、決して逆らうことはない。
 でも、それは今に始まったことではない。
 今までずっと、私は私の思い通りにしてきたのだ。それだっていうのに……。
 あの娘が気に入らないのは、一目見たときから分かった。あの田舎丸出しのくせに、周りに守ってもらおうっていう魂胆が見え見えで、それだっていうのに周りの男どもはみんな馬鹿で騙されて。
今じゃ、あの娘と私で人気を二分してるですって? 冗談じゃないわ。あんな薄汚れた娘と私を同じ扱いしないで欲しいわ。
あんな娘は私に跪くべきなのよ。田舎者が私の隣に並んでいいはずがないのよ。
「そうよ、絶対にそうよ」
 立ち上がる。
そう考えたら、すぐに行動に移さないと。なんとかして、あの娘に恥をかかせてやるわ。田舎者にふさわしい惨めな姿で、ね。

「私のなにがいけないの?」
「お嬢様、落ち着いてくださいませ」
「落ち着いてなんかいられないわよ」
 手元にあった銅像を扉に向かって投げつける。木の扉は大きな穴が開いたけれど、そんなこと気にすらならない。
「なんで? なんで私が捨てられるわけ?」
 今日の出来事を思い出すだけで怒りが込み上げてくる。
「私に向かって、別れてくれ、ですって? それも、あの娘に乗り換えて」
 別れを告げられた直後に現れたあの娘の表情が忘れられない。普段は決して見せない憐れみの表情。許せない。私に同情するだなんて。
 許せない。
 今まで、ありとあらゆる邪魔をしてきた。道端を歩いているあの娘に泥水をかけようとしたことなんて、何度やらせたか数え切れないくらい。そのたびにひょいと避けて、隠れてみている私の方を見る。あの呆れた表情。許せない。
 二階から花瓶を落としたって、着替えの服を切り刻んだって、いつも逃げられる。なんであんなに用意がいいのよ。
 その度に、何度も何度も何度も、あの人を見下すような視線を向けてくる。許せない、許せない。
「もう、かくなる上は、あの娘を殺すしかないわ」
「お嬢様、それは……」
 扉に開いた穴から執事が顔を出す。
「そうよ、なんでこんな簡単なことに気付かなかったのかしら。あんな田舎娘、いなくなっても誰も困らないもの。そうよ、あの娘には死んでもらうのよ」
 そうよ、腹を割いて顔を焼いて、あの娘の全てを殺すのよ。殺す殺す、殺す。
「しかし、お嬢様……」
「いい? あの娘を呼び出してちょうだい。場所はどこでもいいわ。人がこないような場所によ。それと、殺し屋を一人雇うの。それもちゃんと命令を忠実に実行できる、とびっきり腕のいい殺し屋よ。いい?」
「お嬢様」
 執事が強い口調で話し掛けてくる。
「いいですか、今までのことは、お嬢様のおふざけで済むことです。しかし、今お嬢様が仰っていることは、お父上にもご迷惑がかかるのですぞ?」
「それがどうしたっていうのよ。パパなら分かってくれるわ。この私が、こんなに惨めな想いでいるのよ? こんなの、許せないじゃない」
「しかし、何も殺すなどと……」
「あなたはねぇ、知らないでしょうけれど、あの娘の眼、あの娘の眼が気に食わないの
よ。そう、私はあの娘の眼をえぐりとってやるわ。その上で殺させるの。いい? 殺し屋にはこう言うのよ。最初に死なない程度に動けなくして、私が眼をえぐったらとどめを刺して、って」
「お嬢様……」
「いいの、大丈夫よ。誰にも見られないようにすればいいのだから。何なら、その殺し屋も後で始末しちゃえばいいじゃない。それが名案よ、あとは貴方が黙っていれば済むこと」
「ですが……」
「私の言うことが聞けないっていうの? それなら、別の執事を雇えばいいだけのこと
よ?」
「お嬢様……」
「いいわね、言ったとおりにするのよ。決行は一週間後、今から楽しみだわ」
 私は上機嫌で布団をかぶると、夢の中へと落ちていった。

これは、何……? 私は一体、何を見ているの……?
目の前にはあの娘が立っている。
決行の日、あの娘を呼び出した場所に、あらかじめ隠れていた。そして、あの娘が現れ
て、殺し屋に殺されるはずだった。
そう、今頃、あの娘の眼をえぐりとり、あの娘は殺されているはずだった。
あの娘。いや、この娘は……。
「不思議そうな顔をしているのねぇ?」
 田舎者の娘が口を開く。また、私を見下ろす目をしている。それも、もう、汚いものを見るような軽蔑の眼差しで。
「なんで私が生きてるのか、知りたいって顔してるわねぇ。知りたいの?」
 娘は、手にナイフを持っていた。大ぶりの黒いナイフだ。殺し屋が持っていたはずのナイフには、血がべっとりとついている。持ち主であるはずの、殺し屋の血が。
「貴女が私を疎んでいることは知っていた。けど、所詮は貴族のお嬢ちゃんの戯れ。微笑ましいくらいで、気にかけることもなかった。だけど、殺意を向けてくるなら話は別。この一週間、貴女の視線はぞくぞくしたわよ。あの、殺意に溺れた人間だけが放てる独特の雰囲気。この日が来るのをどれだけ待っていたか」
 目の前の娘が、何を言っているのか分からない。彼女はただの田舎貴族の娘で、私の前に平伏すだけの存在。それなのに、なぜ、今私が見下されているの? なぜ?
「殺しなんて久しぶり。それも本業の殺し屋相手なんて、滅多にできることじゃないわ。ありがとう、楽しませてくれて。お礼に私のこと、話してあげるわ。気になるでしょ?」
 目がそらせない。体も言うことを聞かない。自分の息がすぐ近くに聞こえる。
 逃げたい。足が動かない。腰が地面に張り付いて動かない。
「私は養子なのよ。貴女が言っていた通り、私は薄汚い下賎の輩。ただし、貴族でもなんでもないんだけどね。貴女に会うちょっと前かしら、拾われたのよ」
 この娘が下賎の輩? そんなことは言われなくても分かってる。そんなこと分かったところで、この娘が私に平伏すことに変わりなんてない。
 ナイフを携えた娘がしゃがみ、私のすぐ眼前にまで近づく。今なら眼をえぐれる。忍ばせたナイフで、この娘の眼を――
「あーら、こんな危ないもの持ってて。お嬢様には似合わないですよ?」
 動かない手をすり抜けて、ドレスの内側からナイフが抜き取られる。反応できない、一瞬の出来事。
「さすが貴族様、懐剣にもお金をかけられて。って、あらあら。お嬢様ともあろうお方がはしたない」
 ふとももに温かな水の感触。
「どうしましょう? これじゃ、お嫁にも行けないわねぇ」
「ひっ」
 遠くで空気の漏れるような声がした。
「ひっ、ひひっ、ひっ」
 必死でもがく。この場にいちゃいけない。この娘から離れなくちゃいけない。
「どうしたのかしら? 必死にもがいちゃって、取られたナイフが欲しいのかしら?」
 血の一滴もついてない刃を、この娘が手にする。
「ぃっ、いやあぁぁっ」
 悲鳴をあげていたのは私だった。とっさに足が感覚を取り戻す。
とにかく、離れないと。この娘から、少しでも遠くに。
「あら、逃げちゃうの、残念?」
 手を使い立ち上がる。だが、足を一歩踏み出すことはできなかった。
 私はバランスを崩し倒れた。
また娘が視界に入る。ナイフと逆の手に足を持っている。
足? 誰の足? 足?
「あっ、ああしぃっ、私のっ―――」
 手で口が塞がれる。
「静かにしてね? 邪魔が入っちゃうと困るでしょ? それに、また逃げようとしたらおしおきするわよ?」
 痛い、痛い、痛い。足が、私の足が、痛い、痛い。
「まったく、暴れないでちょうだい、な、っと」
 口を塞いだ手を振りほどこうとした腕がぼとりと、最初からくっついてなかったように落ちた。
「いい? これ以上暴れたり叫んだりするようなら、残りの腕と足、切り落とすわよ?」
 腕と足が痛い。涙で相手の顔が見えない。
何もかもが、ぐちゃぐちゃだった。
「いい子ね、痛いでしょうに。それとも、もう痛みが麻痺しちゃったのかしら。それなら幸せね」
 声だけが聞こえてくる。男たちに向けられていた声。偽りの声。
「そんなにつらい顔をしないで? 私のこの姿を知っているのは、貴女だけなのよ? 貴女は私の秘密を知る、唯一人の人なんだから。でも……」
 いや、違う。この声は、もはや私の知っている娘の声ではなかった。誰か別の、得体の知れぬ誰かの声だった。
「……さよなら」
 何も見えない。ただ、別れの声だけが聞こえた。
それが最後だった。 
 目の前にいる誰かが、私の中心に何かを振り下ろし、私の思考は暗闇の中へと落ちていった。

 

「以上が、私の持つ鮮明な記憶です」
 女が話し終えると、その最中ぴくりとも動かなかった少年は、小さく息をついた。
「ありがとうございました。とても楽しかったですよ」
 やはり天使の微笑みで、少年は話し終えた女をねぎらう。
 少年の首には、ナイフが突きつけられていた。
「評価の前に、何を望むかを聞き忘れていましたね。あなたは、一体何を望むのです?」
 少しも動じた素振りを見せずに、少年は女に問う。
「そんなこと、聞く必要はないだろう?」
 少年が女を見上げる。顔には人を見下したような侮蔑の表情が張り付いている。
「でも、ちゃんと聞いておかないと、分からないじゃないですか」
 あくまで、少年は質問を繰り返す。
「この状況でも分からない、か」
 女はナイフを微動だにさせずに苦笑する。
「それならそれでいい、答えてやるよ。安穏とした暮らし。これだ、私が欲しいのは」
「しかし、殺人が楽しいのではないのですか?」
「ははっ。確かに、そう考えるのが妥当だろうがな。殺しの愉悦ってのは確かにある。だが、貴族の怠惰な暮らしもたまらん。アンタもそうだろう?」
 女の問いには少年は答えない。ただ、小さく微笑んでいるだけだ。
「つれないガキだな。まぁ、いい。とにかく、私は貴族の暮らしを取り戻したい。今度
は、殺しがばれて身分を剥奪されないように気をつけて、な」
「では、それがあなたの望みの動機、なのですね?」
 少年は女に問う。
「はっ、そういうことになるな。さて、そろそろ……」
「残念ながら――」
 そこで初めて、少年は女の言葉を遮った。微笑みを絶やさなかったその表情が、段々と無表情になっていく。
「残念ながら、貴女の望みを叶えることはできません」
 無表情の少年は、女の顔すら見ようともせずにそう言い切った。
「何を言っている? 別に、お前とあの執事を殺して財産を奪っていってもいいんだ。なんなら、お前の代わりに伯爵様に成りすますのもいい。何せ、近隣の人間すら、お前の姿を知らないからな」
 女は顔を歪ませながら少年を見下す。それでも、少年の無表情に変わりはなかった。
「もういい、お前は死ね」
 躊躇いを見せず、女がナイフを引いた、はずだった。
だが、動かない。
「な――」
「なぜかって? それはね、貴女の話が、つまらないからだよ」

「お客様の用事はもうお済みになりましたか?」
 書斎に入ってきた執事に少年は視線をやる。
「ああ、ちょうど今終わったところだ」
 少年は、先ほどの笑顔は露ほども見せず、邪悪な表情を浮かべている。
「今日のお客様は、はずれ、ですか……」
 先ほど案内した女が部屋いないことを見、確認するように執事は呟く。
「敷地に入ってきたときから、血生臭い刃の匂いを撒き散らしていたからな。期待はしていなかったがあまりにひどかった」
「ほう……?」
 机の上に残されたナイフを拾い上げ、布に包みながら相槌を打つ。
「ただ、自分の本能に従っていただけだ。夢の欠片も何もない」
 無表情の中に、どこか容姿相応のつまらなそうな表情を浮かべ、少年は背もたれに体を沈める。
「そう言いながら、最後の最後まで可能性を提示する。相変わらずお優しい」
「手順を踏まえているだけの話だ。あらゆるものを食する人類でさえ、様々な形式と共に食文化がある。しきたりがなければ、共食いが横行していた可能性すらあるのだ。時と共に形成される文化は偉大だよ」
「食事など、とうの昔にお止めになられた方の言葉とは思えませぬな」
「摂取せずとも数百年は困るまい。そういう身体だ。何より恐れるべきは、本能に屈し理性を失うことだろう。満たされるかもしれんが、ただそれだけだ。その先にはなにもな
い」
 無表情のまま応える少年を見て、執事は口元で小さく微笑んだ。
「さて、我が主、今日はもう一人来客があります。いかがいたしましょうか?」
「かまわん、すぐ通せ。次はもっと、私を楽しませてくれればいいのだがな」
「はい、ではすぐにお連れします」
 そういって、執事は書斎を出て行った。

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